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てんかんと心因性非てんかん性発作(PNES)編
 「おかえり

(2022年10月号より)

 

生活制限と多剤投与

 

和島 ぽつラジオの和島です。この番組では、私たちがてんかんという病について考えていることをぽつりぽつりと話しています。

今日は元てんかん患者のうるうるさんをゲストにお迎えしています。

 

うるうる こんにちは。うるうると申します。私は11歳でてんかんと診断されました。いまは寛解しているので定期的な服薬はありませんが、頓服としてデパケンやセルシンを服用しています。

また、自閉症とてんかんのある息子がいて、年に一回は親子で脳波検査を受けています。今日はよろしくお願いいたします。

 

和島 私もてんかん患者という立場で一緒にお話しをさせていただきます。

それでは、うるうるさんにてんかんの診断が下りた時のお話をお聞かせください。

 

うるうる 幼いころから熱性けいれんを繰り返していたんですけれども、小学5年生の時に初めて熱のない時の全身けいれんを起こして倒れました。夜間に救急搬送され、当番医に「貧血ではないか」と言われて返されましたが、母が違和感を覚えて別の市立病院に脳波検査を予約してくれたんです。

 

和島 そこでてんかんの脳波が録れたんですか?

 

うるうる おそらく録れなかった。それで母が保健所の保健師さんから昔ながらの精神病院を紹介され、改めて脳波検査を受けました。脳波技師の方がデータを見て「わっ、これはひどい!まっ黒だ!(1)」って言ってしまったんですけども、「まっ黒」っていうことだけではてんかんとはいえないと、あとで専門医の先生から言われました。

 

和島 ただ、そこでてんかんの診断が下りたわけですね。

 

うるうる はい。発作から一週間くらい経ってから倒れた時の記憶がはっきりよみがえってきて…。テレビを見終わってスイッチを消そうと伸ばした右手からガクガクしたことや、発作の前兆みたいな匂いや音がしたことをお医者さんに話したところ、特発性(2)のジャクソンてんかん(3)と診断されました。

 

和島 それ以降はどのような治療を行いましたか?

 

うるうる 当時は生活制限と多剤投与の二本柱が治療の中心でした。私の場合、テレビを見終わった直後に大発作を起こしたので、テレビも映画も全部禁止。さらに、てんかんは酸欠で発作が起きるので運動も全部禁止。「明日から体育は見学ね」って言われました。

 

和島 見学の理由は学校に伝えましたか?

 

うるうる おそらく母から学校なり担任なりには伝えたと思うんですけど。

 

和島 クラスメイトは知らないわけですか?

 

うるうる そうですね。当時は社会の差別や偏見、迷信が根強い時代でした。「あのうちにてんかんの人がいる」、「精神病院に通っている人がいる」という噂が立つと、家族全員がそういう人なんじゃないかと決めつけられたり…。いろんな心配が母にはあったようで、「家から一歩出たら絶対にてんかんっていうことは言うな」って固く口止めされました。

私の場合、昨日までクラスで1,2を争うぐらい足が速かったり、ほかの子よりもできることがたくさんあったのに、突然何も言わずに見学モードに入ってしまった。周りからは「どうしたんだ?」って訊かれるんですけれど、私も子どもでしたのでうまく返せない。そうすると、だんだん「仮病じゃないか」とか「嘘つき」だとか悪口を言われたり、いじめられるようになりましたね。

 

和島 そうしたストレスや悩みを、ご家族には相談されなかったのですか?

 

うるうる そうですね。母は最初の主治医に、「娘さんがてんかんになったのは、お母さんがお産の時にいきむのが下手で、それで娘さんが生まれる時に酸欠になって、それでてんかんになってしまったので、お母さんのせいですよ」と言われたらしいんですね。母はすごく大きなショックを受けてしまって…。医者も含めて周りの人が自分を責めているっていうふうに感じてしまったみたいです。私が「てんかんの相談をしたい」と言うと、耳をふさいで逃げてしまって、まったく話ができない状態だったんです。

 

和島 自分の悩みを相談できる人がいない状況で、どんなふうに大人になったのかを教えていただけますか?

 

うるうる そうですね。いまお話ししたのは、診断がついたばかりの小学校高学年ぐらいのことですが、中学に進学してからも同じような状況でした。たとえば、吹奏楽部に入って、「サックスが吹けるようなカッコいい人になりたいな」とサックスを始めたんですが、「酸欠になるからサックスは禁止」とストップがかかってしまって…。パートを変更する理由も顧問や先輩方に一切言えないわけです。そうすると、「コイツは根性がない」とか「わがままなんじゃないか」とか「嘘つき」だとか言われて…。

で、高校進学の前に当時の主治医に訊いたことがあるんです。「一生薬を飲むんですかね?」、「私にはどんな将来があるんでしょう?」と。そしたら、その先生が言うには、「駅から遠く離れた、歩かなきゃいけない学校が志望校だとしても、歩いたら酸欠を起こすので、あなたはそこには行けません。もちろん、そんな人を雇ってくれる会社はありません。赤ちゃんを産んだら奇形になるようなお薬を飲んでいるので、赤ちゃんは当然産めません。そんな人をお嫁に貰ってくれる人もいないので、もちろん結婚もできません」って…。多感な思春期のころに言われましたので、お先真っ暗で、生きる意味みたいなのを見失ってしまったんですよね。で、この主治医は信用できないなと…。もう相談をやめたんですね。親にも相談できませんし、高校になってからは、「自分の責任でやれることをやってみよう」って切り替えるようになりました。まずは、4年以上休んでいた体育の授業に、親には内緒でしれっと参加してみました。体育の先生には親経由ではなく、初めて自分から事情をお話ししました。「4年間体育をできなかったんです」、「プールも禁止されていたので泳げないんです」と。

 

和島 先生はどんなリアクションでしたか?

 

うるうる 「ああ、そうか」みたいな感じで(笑)。「水泳というのは泳ぎを自慢するものではなくて、溺れないためにやるんだ」って。「泳ぎの型とか見映えにこだわらず、とにかく浮いてろ!」と。ユニークな切り口で教えてくださる先生だったので面白いと思うようになりましたね。

それと、当時はいまのようにお薬手帳もなくて、自分が何を飲んでいるのかを知る権利がなかったんです。じつは薬が一錠増えていたりとか…。かなりひどい薬漬けみたいになっていたと思うんですね。高校からは授業中に寝てしまうようになって…。

 

和島 薬の副作用で眠くなる?

 

うるうる そうです。ただ、休み時間は普通に体も動きますし、活発に過ごしていたので、そうするとまた、「コイツはサボッているんじゃないか」、「ズルをしているんじゃないか」、「怠けているんじゃないか」って…。

短大に入ってからは、高校のような堅苦しさからは解放されましたが、カナダから来たシスターが開いた学校だったので厳格でした。古いスタイルの授業をする所で、学級があって、席も決まっている。私はクラスで前の方の席だったんですけど、副作用で寝ている姿をみんなに見られてしまうんですね。なので、シスターに直談判して、「じつはこういう事情で寝てしまうんですけど、席を後ろにしてもらえないですか?」って。自分から合理的配慮を申し出たのはそれが最初だったと思います。

1 脳波計のペンレコーダーが脳波の乱れを記録紙に記録した様子。

2 原因が特定できないてんかんのこと。

3 手足がピクピクと痙攣して、だんだん全身に広がっていくタイプの発作。

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